【シリーズ高校バスケ VOL.1】田臥勇太以降の高校バスケをおさらい

■ 日本の高校バスケの魅力を伝えたい!
昨年2020年の高校バスケはコロナの影響によりインターハイや国体が中止。しかし、冬のウインターカップはやむなく棄権せざるを得ないチームも出てしまいましたが無事に開催されました。
数年前から正式に高校最高峰の大会となったウインターカップ、色んな思いを持って大会に臨んだ高校生たちのプレーは今年も我々ファンに多くの感動を届けてくれました。そこで、この高校バスケの魅力を少しでもお伝えできたらと思い、シリーズ高校バスケと題して紹介していこうと思います。
歴史の長い日本高校バスケですが、今回は私自身がリアルタイムで見ているということも含め田臥勇太以降の高校バスケをざっとおさらいしていこうと思います。

■ 3大大会のおさらい
日本の高校バスケはインターハイ国体ウインターカップの全国3大大会が主な競技大会です。
インターハイ(以下 IH)は夏の大会で、他のスポーツとともに行われます。毎回開催地は異なり、予選を勝ち抜いた各都道府県毎の代表(都道府県により出場校数は異なる)がトーナメントで競います。


国体は秋の大会で、この大会は高校単位ではなく都道府県単位での戦いとなります。チームは同じ都道府県の高校の混成チームとなることが多く、IHやウインターカップの常連校の選手以外でも有望選手が出場することがあります。また、国体もIH同様開催地は大会ごとに異なり各ブロックから勝ち抜いた都道府県チームがトーナメントで競います。

そして冬にはウインターカップが開催されます。会場は1994年より東京体育館(※一部他の会場だったこともあり、近年はオリンピックの関係で会場変更してます)で、毎回同開催地となるので固定のファンも多く、3年生にとっては最後の大会、そしてクリスマスを跨ぐ年末に行われるということもあり、特に近年は最も盛り上がる大会となっています。各都道府県の予選を勝ち抜いた60校(最近増えました)がトーナメントでチャンピオンを競います。


少し細かい話ですが、2017年からこのウインターカップが高校チャンピオンを決める最も格の高い「選手権大会」(以前は「選抜優勝大会」)となりました。それまではIHが選手権大会だったのですが、ウインターカップの方が開催が後になること(近年の常連校の3年生は最後まで引退しない)、年末なので国際大会と日程が重複しないこと(世代代表に選ばれる選手はIHに出場できないことがある)、会場が毎回同じで盛り上がること、そして何よりも今まで書いた理由によって最高峰の大会だと認識されていたことなどの理由で名実ともに年度チャンピオンを決める大会となりました。

私もウインターカップのファンで、なるべく現地に足を運んで観戦を楽しんでいます。2019年の観戦に関してはこちらでも紹介しています。

2015年
2017年

■ 田臥勇太以降の高校バスケの変遷をダイジェストで紹介
ここからは田臥勇太以降の高校バスケをざっと紹介していこうと思います。上記の通り国体は高校単位での大会ではないため、IHとウインターカップを中心にその変遷を追っていきます。田臥勇太が能代工業に入学して以降(1996〜)のウインターカップとIHの上位校は以下のとおりです。この図をみると一部の高校に成績上位校が集中しているのがおわかりいただけるかと思います。色をつけた7つの高校と選手を中心に紹介していきます。

■ 能代王国が辿り着いた前人未到の9冠と150連勝(1996−1998)
後に日本人初めてのNBA選手となる田臥勇太。彼は1995年の全中でチームをベスト4に導き、必勝不敗の名門校能代工業(秋田)へと入学。能代工業はスラムダンクの山王工業のモデルとなっている高校で、当時は敵なし状態、誰もが認める高校バスケ界最強のチームでした。そんなチームで1年からスタメン、その後3年間の公式戦で負けたのは1年時の1度だけで150連勝、IH、国体、ウインターカップを3年連続3冠(9冠)という未だに破られぬ、そして今後も破られる可能性は極めて低いパーフェクトな3年間を過ごします。
元トヨタアルバルク等の渡邊拓馬(福島工)や元アルビレックス新潟等の鵜澤潤(市立船橋)、仙台89ersなどで活躍し現在89ersの社長を務める志村雄彦(仙台)など当時の全ての高校、選手が打倒能代を目指しますが、その挑戦とプレッシャーを見事に跳ね除けた、この能代および田臥の3年間は、日本の高校バスケにブームを巻き起こし、ウインターカップの会場は連日満員、毎日入場制限が行われるくらい異例の熱狂を巻き起こしました。そしてその後出てくる日本バスケ選手にも大きな影響を与えることになるのです。

ちなみに、当時は田臥の他にも若月と菊池という選手を加えた「BIG3」と呼ばれる3人が中心となったチームでしたが、あまり知られていないエピソードを紹介します。前述の通り田臥は全中(全国中学校バスケットボール大会)で名を挙げ能代に入ることになったのですが、田臥の全中の成績はベスト4でした。その時に優勝したチームは京都の洛西中という中学校。そのチームのキャプテンで大会MVPをとった前田という選手も能代に入学しました。ポジションは同じガードで全中を盛り上げた2人ともに能代に入ることになるわけですが、田臥は1年からスタメンで9冠、一方の前田は公式戦に1度も出ることなく、後にプレイヤーではなく能代のマネージャーになりました。能代のマネージャー職も重責で簡単にはなれない立派な役割ですが、全中から知る我々ファンは改めて能代の選手層の厚さとその中で勝ち抜いた一部の上澄みを見ているに過ぎない現実を思い知らされることになりました。(ちなみに前田さんはその後もバスケに関わり、コーチとして活躍しています。応援してます!)

■ 向こう10年の日本バスケの未来を輝かせた竹内ツインズの登場(2000-2002)
田臥が卒業後も能代は強豪校としてしばらく高校バスケの中心でい続けますが、次の時代に出てきたのは洛南(京都)の竹内ツインズです。当時から「動ける2m選手」の登場は悲願で、しかも竹内は双子なので2人も揃っての出現に、まさに「見てるか谷沢・・・しかも同時に2人もだ(※SLAMDUNKより)」状態になりました。2人が在籍した3年間の成績で言えば、優勝したのは3年時のウインターカップと国体だけなのですが、この世代は彼らを筆頭に現在もBリーグで活躍する岡田優介や石崎巧など有望な選手が多く、「竹内世代」や「ゴールデンエイジ」と呼ばれ世代別の国際大会やその後の日本代表でも結果を残していきます。そして今大学バスケを引っ張る東海大学や青山学院大学が強豪校となっていくきっかけもこの世代の有望選手が入学したことが大きな要因だったと思います。

彼らの登場でメディアや我々ファンは「向こう10年の日本のバスケは明るい!」と評しワクワクしたわけですが、20年近く経った今でも竹内兄弟はBリーグ、そして日本代表として一線で活躍を続けているわけで、改めて畏敬の念を抱かざるを得ません。

■ 洛南の3連覇を成し遂げた辻と比江島。そして並里の衝撃(2005-2008)
次の年代を引っ張ったのは、金丸や橋本の福大大濠、篠山や多嶋の北陸、並里の福岡第一、辻、比江島の洛南、藤井の藤枝明成などいまBリーグでも中心の世代です。その中でも特筆すべきは田臥の能代以来の洛南のウインターカップ3連覇、その中心にいたのは湊谷、辻、比江島です(この3人は1学年ずつズレていて3人共に青山学院大学へと進んでいきます)が、3連覇したのは比江島が在籍した3年間で、日本を代表する彼は小学校時代から大学まで全てのカテゴリーで結果を残しており(全中はベスト4ですが)、同年代の選手からすればいつも全国の舞台には比江島がいる!状態で大舞台での強さは当時から目を瞠るものがありました。
もう1つこの世代で強烈なインパクトがあったのは、今もBリーグの沖縄で活躍する福岡第一高校の並里でした。Bリーグの今でも彼はキレキレですが、高校時代から彼のキレはTVで観てもとんでもないものでした。その後並里は今なお続く「SLAMDUNK奨学金」を得てアメリカへと渡るわけですが、それも納得できるくらい本当にキレッキレでした。(良ければyoutubeなどで観てみてください)彼に憧れるBリーグの選手が多いのも福岡第一の並里を観た衝撃からきていると思います。

また、未だに破られていない1試合の最多79得点を記録(2008)した藤枝明成の藤井祐眞もこの年代での印象的な出来事です。

その後2010年以降にはベンドラメ礼生と留学生を中心とした延岡学園と渡邊雄太擁する尽誠学園の時代、その後能代、洛南以来の三連覇を果たす八村塁の明成の時代、そして河村が率いる福岡第一の時代へと変遷していきます。詳しくは次回の記事で紹介します。